「アンクル・トムの小屋」を読んで
1.はじめに
私が何故「アンクル・トムの小屋」を選んだのかと言いますと、それは「アンクル・トムの小屋」というフレーズを以前聞いたことがあるからです。唯それだけの理由ですが、「アンクル・トムの小屋」という物語に非常に親しみを感じたものですから、「アンクル・トムの小屋」のコメンタリーを書こうと決めました。
夏休中、インターネットのアマゾンに頼んで小林憲二監訳の新訳「アンクル・トムの小屋」を注文しました。しかしお盆休みが重なったのか、3日間位かかってうちに届きました。待ち望んでいた本ですから、即座に開封して第一章のキャプチャー1をまずは読みました。そしてキャプチャー1を読んでいるうちに、この本はとてもリアリティに富んでいて興味深い内容のように感じました。この本の第一章の迫力といったら一体全体何なんでしょうか。徹夜してでも読みたくなりました。本として非常に魅力のある本だなと感じました。
本を読み込んでいく一方で、参考資料を探しに日野市立図書館へ行ったのですが、見当たりません。「ハックルベリフィンの冒険」は3種類もの児童書があったのですが、「アンクル・トムの小屋」は僕の探した限りでは見つけることが出来ませんでした。それは「アンクル・トムの小屋」が、現代の日本人にとってあまりメジャーでないということを意味しているんだと思います。とても残念でした。
僕はこの本は確かに児童書で作り直すという本ではないように思えますが、大人向けの本として、現代の我々に教えてくれることがたくさんあると思います。キリスト教、フェミニズム、家庭とか家族といった、黒人問題を別個にしてみても、現代の日本人において十分共通する、社会的な問題を取り上げていると感じていました。参考資料がないということは、自分の僅かながらの人生経験と魂で読み込んでいくしかないと思いました。つまり僕には米文学購読の授業で読んで来た本があります。それらの本と比べてみたり、現代の社会問題と照らしあわせてみたりして、本の内容を受けとめてコメンタリーを纏めていこうという思いに至りました。
2.アンクル・トムについて
まず主人公のアンクル・トムについて書きたいと思います。小林さんの解説の所で書かれているのですが、現代の辞書では「白人に対して卑屈に媚びへつらったり、丁寧に接する黒人。」だとか、「卑屈で従順な態度や考え方を持っている黒人。」とアンクル・トムのことを説明しているとのことです。私の意見では白人にどうのこうのという問題ではなく、惨めで哀れな人間のように思えてなりませんでした。例えば「ライ麦畑でつかまえて」の白人の主人公、ホールデン・コール・フィールドも惨めで哀れな人間のように思えます。そして「ハックルベリフィンの冒険」の黒人ジムも南部に売られる恐怖で逃亡を試みたりすることはかわいそうな人間のように思えます。しかしながらこの二つの小説と明らかに違うのはアンクル・トムは青年であり、ホールデンやジムは未成年であるということがいえます。どこかにストウ夫人は性を無視してこの本を書いていると書かれていましたが、ハックルベリフィンもホールデンもまだ子供なので性についてふれなくてすんだんだと思います。だから、アンクル・トムの小屋は性を無視していると言われても未成年を書かず青年を書いたという点で注目に値すると思います。この本にはホールデン、ジム以上の、惨めさ、哀れさ、悲しさといったリアリティを十分に含んでいると感じます。大の大人が黒人であるというだけで、白人の主人に対して、「旦那様」とか言ってへつらいながら一生を送ることがどんなに理不尽であるか気が知れません。子供が人間として未完成な状態であるとか、まだ未熟だとか言われるのは理解できることだと思いますが、黒人は人間として5分の3とみなすと1788年の合衆国憲法で公に宣言されたことなどを踏まえても、現代の我々には屈しがたい侮辱だと考えられます。しかし、それは現実にあった人類の歴史であることは事実です。ホールデンは様々な文学的な本を読んでいましたが、アンクル・トムは聖書を読んでいました。アンクル・トムを自律した人間のようにおもわせる唯一の手段であり、アンクル・トムの小屋というストーリーを成立することができた手段であると思いました。
3.聖書について
この聖書とは一体何なのか。私はアンクル・トムを読んでいて、まるで聖書を読んだ人のように心が救われるかのような感情がわきました。聖書とはこういう感じなんだろうなということを学んだと思います。例えば黒人女性エライザが奴隷商人から逃げるため、子供を抱きかかえて流氷を渡る箇所を読んだ時は、忘れかけていた母親の尊大さや家族の大切さを感じ取ることができました。これは家出をする子供が増え、家族がばらばらになってきたと言われる現代の日本人の心に強く響くことだと言えます。黒人女性エライザから私達は家族の大切さを学ぶことができると読みとれました。同様に奴隷商人のヘイリー、悪党のマークス、悪党のトム・ローカーの会話からも(新訳アンクル・トムの小屋、本文87〜88ページ)家族の大切さ、母親という存在を感じ取ることができます。
「〜いえね、わっしもむかし奴隷商人をしてたときに、一人の娘っこを買ったことがあるんですよ。身体のひきしまった、感じのいい娘でしたよ。おまけにかなり目端の利くほうでね。その娘に子供がいたんですが、そいつがひどい病気持ちでした。背中が曲がっているとか、そんなことだったんですがね。その子はただ同然だったんで、そいつを育てて儲かるもんならそれで儲けようと考えていた男に、わっしはその子を譲り渡したんですよ。いいですか、わっしは娘がそのことであんなふうに騒ぎ立てるなんて、全然思ってもみなかったですよ。ところが、いやはや、ほんとの話、娘がどんなだったかあんたに一つ見せたかったですよ。わっしの見たところじゃ、その子が病弱で、厄介もので、あの娘を悩まし続けるからってんで、あの娘はその子をよけいに大事にしているんじゃないかって思えましたね。見せかけでやってなんかいませんでしたよ、本当に。まるで友達を全部なくしちまったみてえに、そのことで泣き叫びましたよ。本当に泣き叫び、あたりを走りまわっていましたよ。考えてみれば、本当におかしな話ですがね。いやはや、女ってものを分かろうとするのは、難しいもんですな」
4.フェミニズム
この本はハリエット・ビーチャー・ストウ夫人が書いているのは明らかなことですが、女性が書いているということが重要なことと考えられます。女性独特の表現と思われる箇所を引用したいと思います。(新訳アンクル・トムの小屋165〜166ページ)
「〜これまで若く美しい女性についてはたくさんのことが言われ、たくさんの歌が歌われてきたが、年を重ねた女性の美しさにどうして誰も目覚めないのだろうか。この主題について、霊感を呼び起こしたい方がおられるならば、ちょうどいま小さな遥り椅子に腰掛けているわれらがよき友レイチェル・ハリデイを紹介しよう。彼女の〜」
このように女性独特の観点からストウ夫人は物事を捉えることが出来るのですが、黒人問題についての話を持ち出している時に、女性の問題についても持ちかけている箇所があります。それは現代の日本人にも一貫して言えることなのですが、アンクル・トムが奴隷商人ヘイリーに買われて馬車に乗っている最中に、ジョージ坊ちゃま、つまりアンクル・トムを奴隷として使用していたシェルビー氏の息子がかけつけて、ヘイリーを叱咤する場面です。(新訳アンクル・トムの小屋130ページ)
「男や女を買ったり、彼らを家畜のように鎖でつないだりして一生を過ごすなんて、恥ずかしくないのか!卑劣だと感じないのか!」
これはテレクラや出会い系サイトで日常茶飯事に行われている売春を叱咤しているように思えます。又、合法的に認められているソープランドにも言えることだと思えます。合法とは何か。何故合法なのか、考える必要があると思います。
又、エヴァンジェリンという女の子供が船から転落して、それをアンクル・トムが飛び込んで救出した場面があります。その縁でエヴァンジェリンの父親はアンクル・トムをヘイリーから買うことになるのですが、ヘイリーに渋々お金を出します。そしてお金を渡すとこう切り出します。(新訳アンクル・トムの小屋184ページ)
「ところで、もしこの私がばらばらに分解され、そのそれぞれを財産目録に記入されるとして」と、青年は書類にざっと目を通しながら言った。「どのくらいの値段になるんだろう。私の頭の格好にいくら、広い額にいくら、両腕、両手、両足にいくら、それから教育、学識、才能、誠実さ、宗教にいくら、いくらってね!やれやれだ!私の場合、最後の宗教にはあまりいい値段はつかないだろうな。でも、まあいいか、さあ、おいで、エヴァ」
5.人種問題
アンクル・トムの主人シェルビー氏が奴隷商人ヘイリーに、黒人奴隷アンクル・トムと幼いハリーを売る交渉をしている場面。(新訳アンクル・トムの小屋19ページ)
「〜小さな子供を売るといったような不愉快な場合には、できる限り私なりに気を使いまさあ。母親をその場から連れ去ったりしてね。ほら、よく言うでしょう、去る者日々に疎しって、あれですよ。それで事がすっかり終わってしまい、もう仕方がないと分かれば、奴らは自然にそれになれてくるものでさ。お分かりでしょうが、奴らは白人とは違うんですよ。子供とか妻とかそういったものは、ずっと養っていくものだというように育てられた白人とはね。黒んぼたちというものはですね、きちんとしつけておきさえすれば、どんな種類の希望も、いっさい持たないものでさ。そうすれば、こうしたあらゆることがもっと簡単になるってもんでさ」
「〜いいですか。黒んぼというものはですね、世の中でひどい扱いを受け、あっちこっち引きずり回され、挙げ句にトムやディックとか神様もその名をご存知ないような男にうられていくんです。だとすれば、黒んぼに物事の道理を教えたり、自分への期待を抱かせたりして、大事に育ててしまうことは、かえって奴らには親切ではないんです。というのも、先行きでの苦労や転落などが、それだけ一層ひどいものに感じられてきますからね。まあ〜」
奴隷商人の会話を聞いているととてつもない威圧というか、迫力を感じます。奴隷商人は人種問題などを全く無視しているし、彼らなりの視野ではっきりと黒人というものを認識しているからです。ここまで断固とした意見を持っている人はそういないと思いました。黒んぼとはこういう人間である、奴らはよくこういう行動をする、といった風な黒人への見識は、この第一章に出てくる白人のどの父親達よりも権威をもっていると自覚しており、権力を大いに振るっているといった感じがしました。人間が人間を支配していた南部のアメリカでは、こうした断定的な見識を用いて支配していたということがまじまじと伝わってきました。彼等奴隷商人はおろか、牧師でさえも聖書には黒人奴隷は正当なものであると主張していたと言います。偏った見識や理解が人種問題はおろか、様々な問題を多勢をもって正当化していたということが解りました。
6.まとめ
黒人問題とは何だったのかと言えば、白人が黒人を奴隷として扱っていたという事実だけではなく、聖書、家族の問題、フェミニズム、人種問題といった、この本の第一章を読み進んでいると、様々な問題が折り重なって黒人問題を形成しているということが解りました。黒人問題自体を調べれば、それはそれでたくさんの大変複雑な問題があるように思えました。奴隷制度はなくなりましたが、黒人問題から、「アンクル・トムの小屋」から、これからも私達は学ぶことがたくさんあるように思えます。この本を軸とし、アメリカの人種問題だけでなく、いろいろな本を読んで様々な問題を今一度考えてみようと思いました。